DESIGNLESS DESIGN
2010年初めて新幹線に乗った。 東京の21_21 DESIGN SIGHTで開催されていた展覧会を観るためだった。
倉俣史郎とエットレソットサス展。 その2年前、18歳の時に本屋で雑誌penの表紙にいままでに見たことのない椅子が載っていて中身を見ることなく買って帰った。ジャケ買いってやつである。 帰宅しさっそく雑誌を読んでいくと、表紙に載っていたその椅子はミス・ブランチという名前でそのデザイナーは倉俣史郎であることを知った。 初めて倉俣史郎のデザインしてきたものが生で観られると気持ち高らかに新幹線に乗り込みその時買ったpenを読み返すつもりだったが、初新幹線だったので車窓の景色も気になり外見たり車内販売が気になったりで結局たいして読み返せないままあっという間に東京へ着いた。 会場に着き観たかった椅子や家具をじっくり観て満足したのだがひとつひっかかることがあった。それは家具やプロダクト以外に展示されていた7本針が付いている時計や、キューピー人形がゆっくり回ってウインクするというよく分からないオブジェ。
タイトルは「デザインレスデザイン」となっていた。 他の仕事に比べてやたら気が抜けてるし、洗練もされていない。
デザインのないデザインっていう言葉は理解できるけど、結局本質的な意味をとらえきれないまま会場を後にした。 そしてその数年間ことあるごとにデザインレスデザインという言葉が喉に小骨が刺さったように脳みそにひっかかっていた。とれそうでとれないし、飲み込めそうで飲み込めない。 その小骨が自然と飲み込めるようになったのはウェディングリングを作るようになってからだった。それまではモチーフや組み合わせ、どちらかと言えばデザインはビジュアルを作るものという意識が強かったのだが、ウェディングリングの場合はなるべくカタチを削ぎ落としていかなければならない。カタチとコンセプトの天秤を極端に不均衡に振り切ることで成立させ、コンセプトを際立たせていく作業なのだ。アートの世界だとミニマルアートの世界に近いのだろう。そして自分なりのデザインレスデザインをジュエリーに昇華させたいと思うようになった。 倉俣史郎のやろうとしていたデザインレスデザインは、自分の意図や意識も捨て、脈絡すらも飛び越えてたただの手遊びのようなものだだたかもしれないし、近代合理主義への反骨心からくるものだったのかもしれないけど、展覧会でその言葉をもらわなかったらいまだにジュエリーの存在意味のようなものは掴めないままいたかもしれない。 ジュエリーもアクセサリーも付けないし、ましてやアートなんてさっぱりわかりませんという人はきっと多い。でも最近は、あなたが左手薬指にはめているものは立派なアートですよと迷わずに言えるようになった。金属の輪に愛とか永遠とか誓いなどのコンセプトを込めて死ぬまで身に付けるわけですから。 世界中でもっとも需要が高くもっとも身近なアート商品だと思う。
良い意味で必然性を持ちすぎていて生活に根付きすぎていてるから気がつかないけれど。
今回の指輪は今までの中でもっともデザインレスデザインだった。まだ奥様へ指輪をあげられていないという旦那様からのご依頼。自分はつけないけど奥様にはあげたいと。 奥様がアーティストをされていて、ペイントもやれば歌も歌うしパフォーマンスもやると伺って、あぁこれはもうミノの出る幕じゃねーなというか、奥様へ委ねられるデザインが良いよねと旦那様とも話合った末、僕は何もしませんという結論にいたった。 何もしないとはいえ作るのは作るのですが、作るのは下地まで、こちらの意図は排除してあとは託すという事。 指輪の持つ表情や佇まいは奥様自身が作っていけるように、柔らかくて曲がりやすくて傷つきやすい純金を使用することにした。 今から長い年月をかけて手のシワが増えていくのと同じように日々の経験が指輪の表面に蓄積されていく。数十年後が楽しみだ。
「 物はぎりぎりまで使ったときがいちばん美しい姿になるんじゃないかな 」-倉俣史郎- 末永くお幸せにー! K24 gold